織田信長と本能寺
日承上人と信長
織田信長といえば中世戦国の世の人で人気のある武将です。
信長は、早くから天皇の日常生活の資金が不十分であったのを知っていて、何かさせてもらおうといつも思っていました。
また宗教弾圧でも有名ですが、そればかりではありません。
例えば伊勢大神宮の式年宮(二十年毎に新しく造営すること)や内裏御所(京都皇居)の御修理には他の武将や豪商に率先して奉仕をしています。
この信長の影の力となり彼を薫陶し、勤王の志を起こさせたのは当時の本能寺の住職だった日承上人でした。
信長は上洛の度に本能寺に馬をとどめ、親しく上人の教化を受けることを無上の喜びとしていました。
戦国の世とはいえ民の心の奥に秘められたかすかな望みが、信長によって勤王の志に盛り上げられ民の心の支えとなり、信長自身にもそれが施政の指針をあたえることになったと思われます。
信長の宗教改革
次に信長の宗教政策については色々いわれますが、戦国以来諸大寺が、土地と兵力をたくわえ大名と並ぶ力を持っていたことをご存じでしょうか。
その大寺は為政者の命令に従わないこともあったのです。
そこで信長は、比叡山を焼き払い、一向宗徒を征服し、奈良の大寺を撃ち、高野山に攻め入るなどの一面を現すこととなるのです。
しかし、彼の本当の意志は仏教本来の姿に立ち戻りなさいという、腐敗した仏教界への警鐘だったのではないでしょうか。
この考え方も日承上人より伝承した信念ではなかったかと思われます。
それほどの影響を与えた日承上人、また当時の本能寺は一体どんなお寺だったのでしょう。
信長と本能寺
本能寺の変を含めて、信長ははっきり記録に残っているだけでも合計4回本能寺に滞在しました。本能寺滞在の理由は3つあるといわれています。
理由 1
信長はつねづね天皇家に近づきたいと考えていたようです。
信長の時代に本能寺で一番偉いお坊さんだった日承上人(文亀元年(1501年)〜天正七年(1579年)は天皇の親戚でした。
そこで信長は、本能寺に滞在し日承上人に仏教の教えをうけるとともに天皇家とのつながりを築こうと考えていました。
この方のつながりで今でも本能寺の一番偉いお坊さんは菊の御紋章をつけられています。
理由 2
本能寺の変当時の本能寺は今よりもっと大きく広く、またお寺の周りを高い塀と深い堀で囲い、とても安全なつくりになっていました。
信長はそんな立派で安全な本能寺が気に入っていたようです。
理由 3
本能寺は早くから種子島や、大阪の堺で布教活動をおこなっていたので種子島にたくさんの信者さんがおりました。
その種子島に1543年に鉄砲が伝わります。
このことから本能寺に依頼すると鉄砲や火薬を手に入れるのが楽だったようです。
信長はそこに本能寺の利用価値を見い出し、境内地の安堵(右上:禁制朱印状)を約束する代わりに鉄砲や火薬の交易の手助けを促したようです。
それも信長が本能寺に滞在する理由のひとつといわれています。
信長公廊
信長の自刃後、三男信孝の命によって建てられた。
織田信長 肖像画
信長公の肖像画としては、一般に流布している画像と異なり、鼻下に髭がないめずらしい面貌をなしている。
着物の袖、胸などに織田木瓜の家紋が入っている。
織田信長 禁制朱印状
この文書は信長が本能寺を宿舎にするにあたり本能寺と交わした約束状である。
文末には天下布武の馬蹄形朱印が押捺されている。